戦いによって大名や国が次々に入れ替わる。それが群雄割拠の戦国時代だった。
戦いの最前線にあった高天神城の支配者も時代ごとに変化、その流れを紹介。
後継者争いでのし上がった今川義元。武田氏や北条氏と姻戚関係を結び、駿河・遠江・三河を支配。西へと勢力を伸ばし続けていた。(1560年頃)
後に幕府を開いた徳川家康も当時は松平氏の嫡男として今川義元の支配下に置かれ、織田氏との戦いの最前線に投入され続けた。(1560年頃)
父親を追放し甲斐を手中に収めた信玄(晴信)は領内経営にも手腕を発揮。欲しいのは海、虎視眈々と南下を狙う。(1560年頃)
若き織田信長は家督争いに勝利、ようやく尾張を統一したばかり。東から圧力を掛ける今川義元と国境紛争がくり返された。(1560年頃)
※勢力図やイラストは視認性を優先し、簡略化、イメージ化しています。
今川義元は周辺国と同盟関係を結び、駿河・遠州、さらには三河にいたる広大な地域を支配した。義元は、尾張をも併呑すべく矛先をさらに西に向け1560年(永禄3年)大軍を率い駿府を出発した。
義元なき今川領は密約を結んだ武田軍と徳川軍によって東西から蹂躙された。義元の後継者、氏真は掛川城へ逃げ込み半年に及ぶ攻防戦の末、降伏。今川氏は滅亡する。
今川氏が滅亡したことで武田信玄と徳川家康は、大井川を挟み直接国境を接することとなった。当初利害関係が一致した両者であったが、今川氏消滅の今、密約は事実上無効となり、信玄は西への野望を剥き出しにし始めた。
遠江侵攻をくり返した武田信玄は1572年(元亀3年)最大かつ最後の大攻勢「西上作戦」を開始。武田軍に領土を蹂躙され三方ヶ原で大敗を喫し、風前の灯火となった家康だったが、信玄の病死によって、武田軍は引き上げ、難を逃れた。
信玄の死で一旦は引き上げた武田軍。信玄の後継者、勝頼は父親が成し得なかった遠江制覇を達成すべく、大軍を率い再び攻勢に出た。その目標となった高天神城は、激しい攻防戦の末、武田軍の手に落ちた。
高天神城を奪取した武田軍は、翌年、再び徳川領に侵攻した。しかし、長篠の戦いで織田徳川連合軍に返り討ちにあい敗走。対武田戦で、家康は初めて主導権を握ることに。一方武田方の高天神城は、徳川領に孤立状態となった。
対武田戦で主導権を握った家康は領内に食い込んだ高天神城奪還に成功する。翌年、織田・徳川軍は各所から武田領内に侵攻、勝頼は自刃、名門武田氏はついに滅亡した。
武田氏を滅ぼしてからわずか三ヶ月後、本能寺の変で信長自刃。難を逃れ生還した家康は、信長死去の混乱に乗じ空白地帯となった元武田領への侵攻を開始。広大な地域を手中に収め一挙に大大名へとのし上がった。
当時の戦国大名は非常に複雑な同盟関係を結んでいた。武田信玄と徳川家康は今川領を乗っ取る目的で利害関係が一致、両サイドから駿河へと侵攻した。今川氏が滅び、緩衝地帯が消滅、大井川を境に武田氏と徳川氏の国境線が接した今、両者がいずれ対立することは明白だった。
今川氏滅亡後、歴史の舞台から消えた今川氏真は、その後、大名や公家達と交流し趣味の蹴鞠(けまり)や和歌を披露しながら戦乱の時代を器用に生き抜いていった。文化人的な生き方が幸いしたのか、同時代の武将達が滅んでいく中、江戸時代まで生き長寿を全うした。
信玄、再び徳川領内侵攻を開始。信玄本体は高天神城を経由し、二俣城を落城させる。家康は浜松城に籠もるしか手立てはなくなった。
12月、ついに両軍は三方ヶ原で衝突、家康は武田軍に完敗、かろうじて浜松城へと逃げ帰る。
武田勝頼は高天神城制圧の勢いで翌年、東三河へ侵攻。その過程で発生したのが長篠城(愛知県)を巡る攻防戦だった。これを武田との決戦を行う千載一遇の機会と見た信長は連合軍を結成、設楽原(愛知県)に陣を敷き、大量の火縄銃を使用することで武田主力の殲滅に成功した。
孤立する高天神城へ武田氏から派遣された岡部元信(おかべもとのぶ)。今川家に仕えていた猛将岡部は、桶狭間の戦いの際には討ち取られた主君の首を取り返したエピソードでも知られている。そんな彼も高天神城へ派遣された頃にはすでに老齢に達し、また武田氏の斜陽が明白な中、命を捨てる覚悟での赴任だったろう。事実、最前線で刀を抜いて戦い抜き戦死、落城した。彼の墓は現在城外北西に安置されている。
最後の高天神城の戦い。武田方、横田尹松は「犬戻り猿戻り」と言われる難路から城の脱出に成功した。一方で落城後、城内の石牢に7年間幽閉されていた徳川方、大河内政局が発見・救出された。
武田氏も風前の灯火となった今、街道からも外れた高天神城は戦略的価値を失っており、家康は建物を破却し城は廃城となった。
当時は写真や映像もなかったため古文書や絵図が歴史の手がかりとなる。
高天神城に関するものでは甲陽軍鑑(武田氏の記録)・信長公記(信長の記録)・三河物語(徳川氏の記録)などがあげられる。ただし、これらの中には時代を経てから書かれているものや、味方の過大評価、ストーリーの誇張がなされている可能性もあり、慎重な検証が求められる。
本能寺の変で難を逃れた家康は、信長死去の混乱に乗じて、旧武田領に侵攻、大大名へとのし上がる。
駿府で今川家の人質生活を送っていた徳川家康(竹千代)。この頃には、松平元康として今川家の武将として活躍していた。
徳川領を蹂躙した武田軍。しかし信玄の持病が悪化したことで武田軍は撤退を開始。信玄は撤退中に死去し、家康は難を逃れる。
横須賀衆と呼ばれる徳川軍部隊と、高天神城へ兵糧を搬入しようとする武田軍との間で小戦闘が頻発した。
武田と徳川が東西から今川領へ侵攻。今川氏真、掛川城に逃げ込み半年に及ぶ包囲戦の末、開城、降伏。
武田信玄、今川氏滅亡後に約束を違え徳川領へ侵攻開始。家康は防戦一方となる。
長篠の戦い敗戦後も、高天神城への物資補給を目的とした勝頼の遠江出兵は繰り返し行われた。徳川・武田の戦力はまだ拮抗しており、両軍の対峙が高天神城、横須賀城近郊でくり返された。
武田氏にとって敵地に孤立した高天神城の維持は重荷となっており、勝頼は後詰め(援軍)を行わないことを正式に決定。
高天神城の落城後、織田の圧力はさらに強まり、勝頼家臣の離反相次ぐ。
織田軍が各所から武田領に侵攻。追い詰められた勝頼は自刃、武田氏は滅亡した。
将軍・足利義昭を中心に反信長派が結束、「信長包囲網」完成。周囲を敵に囲まれた信長は対処に忙殺される。
家康、信長と共に「姉川の戦い」(滋賀県)に参戦。激闘の末、包囲網の一角、浅井・朝倉連合軍を打ち破る。
秘匿されていた信玄の死はやがて知れ渡り、信長包囲網は瓦解。将軍足利義昭は追放され室町幕府は滅亡した。
織田信長、高天神城救援に大軍を率い出陣も、間に合わず、道中にて落城を知る。
武田氏滅亡を見届けた信長は、家康の案内で東海道を通り安土城へと凱旋。しかし直後、明智光秀の裏切りによって本能寺にて自刃。
江戸時代に描かれ、日本各地の廃城を紹介した浅野文庫「諸国古城之図」。広島藩主浅野家に伝わっており高天神城跡も掲載されている。当時の縄張りが精緻に描かれた絵図は貴重な資料。
高天神城には天守はなかったが、昭和に入り地元の有志達が地域のシンボルとして「模擬天守」を建設。
太平洋戦争末期の深夜、天守が炎上焼失。落雷、あるいは米軍の攻撃目標とされるのを避けるため陸軍が爆破したのでは?とささやかれた。現在は御前曲輪に基礎部分が残されている。
発掘調査で東峰の曲輪群からは大量の茶碗や土鍋、陶磁器などが出土。この場所が生活拠点でもあったことがうかがえる。また的場曲輪には大量の石が敷かれてたことも判明。
降伏を拒否した大河内正局が7年間幽閉されたと伝わる石窟。2010年の台風により上部が崩落、緊急調査の結果、奥に石窟が発見され、伝承が事実であったことが裏付けられた。
繰り返し駿河遠州へ侵攻を行った武田信玄。元亀2年(1571年)の侵攻では信玄は高天神城への包囲・攻撃を行ったと言われてきた。ただし最近の研究では戦い自体が発生しなかったとの説もある。
信玄の後を継いだ勝頼は、周囲に戦果を誇示する必要があり、その緒戦の攻撃目標に選ばれたのが家康の高天神城だった。
長篠の戦いで徳川武田の形成は逆転、家康は領内にくさびのように打ち込まれた高天神城の奪還に乗り出した。