高天神城最強の戦闘空間とも言える西峰ゾーン。
それは武田軍の大改修によって造り出されたものだった。
敵の侵攻を妨げる曲輪、空堀、堀切が
現在もその姿を残す。
高天神城最強の戦闘空間とも言える西峰ゾーン。
それは武田軍の大改修によって造り出されたものだった。
敵の侵攻を妨げる曲輪、空堀、堀切が
現在もその姿を残す。
天正元年(1573年)、高天神城を落城させた武田軍は、城の弱点を認識していた。
それは、自らが攻め落とした比較的傾斜が緩やかな西峰一帯。予想される徳川軍の反撃に備え、武田軍は高天神城占拠後、直ちに改修工事に着手。土木の名手と言われる武田軍によって脆弱だった西峰は強力な戦闘空間へと生まれ変わった。
西峰周辺では、小曲輪を重層的に連ねることで、攻め手を困惑させる構造となっている。結果、攻め手は地形にそって自然に横堀へと誘導され、頭上から銃撃や投石による激しい攻撃にさらされることになる。
攻撃をなんとかかわし、横掘を突破した攻め手の前に立ち塞がるのは、狭隘な袋小路。一見通路に思えたルートは追い込むための罠であり、行き手を失った攻め手はこの場所で殲滅されてしまう。
高天神城奪還に動いた徳川家康は、
この改修によって鉄壁の防御を誇る城を見て、
力攻めを行わず周囲に築いた砦で包囲する兵糧攻めを選択した。
結果、城兵は兵糧が尽き、天正9年(1581)、全軍が城外へ出撃し全滅、
おそらく西峰の防御施設は戦闘に使用されることはなく、
廃城となり森に埋もれていった。
現在、木々に覆われなだらかな形状となっている山城跡は多い。それらは廃城後、数百年間雨風にさらされ城そのものが風化してしまった結果と言える。
石垣の城と違い土の城では雨風以外にも木や根からも影響を受ける。当時の山城では木々は適度に伐採され、土塁はより高く、掘はより深く刻まれていた。再現方法としてARなどの技術が導入されており、それらを使用しながら往事の雰囲気を味わってほしい。
高天神城の西峰の発掘調査では、土砂に埋もれてしまった横堀や堀切が現れた。横堀は当時、南北100m、深さ5mに及ぶ大規模なものだったことが判明した。