その特徴を知る

急峻な山稜が連続する静岡県中部。
その一画、標高約130mの鶴翁山に築かれた高天神城は、
当時の築城技術を結集、地形を巧みに利用した要害だった。
現在は廃城となり、静寂な杜に抱かれた高天神城。
ここで何があったのか?かつては、
どのような姿をしていたのだろうか。

防御と迎撃の要害 山城
当時の高天神城の姿を各方位から確認できます。
高天神城をバーチャル体験
ウォークスルーで現在の高天神城を体感できます。

地形を駆使した
攻め手を阻む
縄張り

地形を活かした
曲輪の配置

曲輪(くるわ)とは城の区画。山の斜面を削り平らな空間が作られ、平時には城主の住まいである館、兵糧・武器等を貯蔵する倉庫などが置かれた。
戦時にはそれぞれの曲輪に兵士が配属され、攻撃に対する防御区画となった。高天神城には死角をなくすべく、無数の曲輪と連絡路が作られており、戦闘時には互いに連携しながら戦ったと思われる。




  • [縄張]なわばり

    本丸・二の丸・三の丸等の曲輪をどう配置するか、防御のための堀や土塁をどうめぐらせるか等、城の全体像の設計を示す。

  • [堀切]ほりきり

    尾根づたいに攻めてくる敵の侵攻を阻止できるように、尾根を断ち切った堀。

一城別郭 東西2つの
中枢を持つ
特徴的な城

東峰と西峰、独立した2つの中枢。

高天神城の大きな特徴が一城別郭(いちじょうべっかく)と呼ばれる構造。山頂や最奥に配置された本丸(主曲輪)を中心に形成される一般的な城郭とは異なり、高天神城では井戸曲輪を境に東峰と西峰の独立した丘陵に分かれ、曲輪構造も異なるのが特徴。東峰は主に居住空間、西峰は戦闘空間として機能していた。

本丸
的場曲輪
現在
過去
現在
過去
スライドを左右に動かすと、現在と過去の高天神城の比較画像を見ることができます。[南側より]



  • 樹木がなかった当時の山城。

    森に覆われた高天神城。当時は現在のように木々が鬱蒼とした状況ではなかった。攻城戦での視界確保のため木々は可能な限り伐採されていたと思われる。伐採された木は建築資材としても用いられた。

敵の侵攻を拒む
堅固な築城技術
築城技術

数多の戦闘を経て進化し続けた戦国の築城技術。

様々な攻城戦が展開された戦国時代。戦闘経験を経て測量・土木技術も進化を続け、横堀・二重堀切・馬出虎口・枡形虎口等を駆使した複雑な城が造られるようになった。
高天神城は築城技術の名手と言われる武田軍が占拠したことで、より複雑な構造を持つ城へと変貌していった。中でも城内の弱点を克服しキルゾーンとしたのが西峰の曲輪群。敵の侵入を拒むばかりか、敵を仕留めるための仕掛けが準備されていた。

特集敵を要撃、西峰ゾーン

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空堀跡

当時の山城の特徴

  • 土塁

    敵の侵入を防ぐため、曲輪の周囲を土手状に盛ったもの。堀を掘った残土が使用された。

  • 曲輪の境界等に設置された囲い。攻め手が掴んで登ることができないよう横木は中心からは外されていた。

  • 板塀

    板で作られた塀で、銃眼(弓矢や銃を撃つための窓)が設けられた。柵に比べ、コストも掛かるため設置されるのは重要箇所に限られていた。

城の立地 入れ替わる徳川・武田境界線。
その最前線が高天神城だった。

海をも支配した武田水軍

現在は田園が広がる高天神城南東部。当時は内陸部にまで内海や湿地帯が広がっていた。
高天神城の立地には海も関係しており、武田軍にとってはこの内海や湿地こそが、高天神城への効率的な大量物資補給路であり、海側を向く大手門からも水運を重視していたことが読み取れる。水運ルートの確保を巡っても徳川・武田の戦闘が行われた。



  • 知ってた?武田の水軍

    甲斐国(山梨県)=内陸のイメージが強い武田信玄と武田勝頼。最盛期には、今川領だった現在の静岡県沿岸部も手中に収め「武田水軍」と言われる強力な水軍部隊も保有していた。これらの軍船は、包囲された高天神城へ海からの物資補給も行っていたと思われる。

当時、内海や湿地が広がっていた高天神城南東部。

横須賀城と六砦

小笠山砦からの高天神城

難攻不落の
高天神城を落とすための
徹底した包囲網

1575年、長篠の戦いに勝利した徳川家康は、自らの領土にくさびのように打ち込まれた高天神城の奪還に乗り出す。
しかし、武田軍によって大改修が行われた高天神城は、かつての城とは異なっていた。そのため家康が選択したのは、力攻めではなく周囲に築いた6つの砦を中心とする20にも及ぶ城砦群で、城を包囲する兵糧攻めだった。

特集高天神城包囲網、六つの砦

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火ヶ峰砦跡
戦国の城 用語集 戦国の城 用語集