浮かび上がる包囲網 高天神城奪還作戦|家康の六砦

長篠の戦いで武田軍に勝利した徳川家康は
自らの領地にくさびを打ち込まれた形となっていた
高天神城奪還に乗り出した。

徳川家康は、武田方の高天神城を奪還するために、徹底した高天神城包囲作戦を展開。
横須賀城を築城することで、兵站ルートを強化した。
また、六砦の築城を行い、高天神城への兵糧・物資補給の遮断を徹底、
それらは高天神城奪還への大きな役割を担うこととなった。

三河物語によれば、高天神城は六砦以外にも柵や掘で周囲を包囲されたと記録されており、家康の高天神城奪還への強い意志がうかがえる。

作戦
武田軍の補給路遮断
敵地に孤立していた高天神城。武田勝頼も長篠の戦いの影響で後詰め(援軍)を送る余力もなかった。小山城・滝堺城からの陸上補給路、海上補給路を遮断する六砦完成によって高天神城落城は時間の問題となった。
城方の戦意を喪失させる
至近距離に砦が次々と築城されるのを目の当たりにした高天神城の城兵達。頼りにしていた武田勝頼の後詰め(援軍)も期待できず、城を完全に包囲する堀と柵も作られ、戦意は落ちていくばかりだっだだろう。

現在に残る六砦の遺構

至近距離から城方の戦意を喪失、最大規模の砦。

1/6 火ヶ峰砦[東]ひがみねとりで

高天神城の北東約1.5kmに位置する。位置については二説ある。その内、東砦は比較的良好に遺されており、頂部の物見台を中心とした主曲輪のほか、腰曲輪・竪堀が残されている。

アクセス 掛川市中方・下土方・岩滑・中

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標高250mの山上から戦場全体を俯瞰

2/6 小笠山砦 おがさやまとりで

高天神城の北方約4kmに位置し、標高250m程の小笠山山頂付近に築かれている。徳川家康は、永禄11年(1567)の掛川城攻めの際に構築し、天正9年(1581)の高天神城の戦いに際し改修している。家康が布陣したとされる笹峯御殿をはじめ兵士が駐留したであろう曲輪が残る。堀切・土塁のほか大規模な横堀は圧巻。

アクセス 掛川市入山瀬

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3/6 能ヶ坂砦 のがさかとりで

高天神城の北東約2kmに位置する。小貫と土方地区の境にあたり、元々番所が置かれていたと云われる。標高80m程の丘陵にあり、削平により残存状態は悪いが、曲輪・腰曲輪が確認できる。

アクセス 掛川市小貫

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4/6 獅子ヶ鼻砦 ししがはなとりで

高天神城の東約3kmに位置する。標高40m程の半島状に伸びた丘陵先端を砦域としている。物見台・曲輪・腰曲輪が比較的良好に遺されている。

アクセス 菊川市大石

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5/6 三井山砦 みついざんとりで

高天神城の南方約3kmに位置する。小笠山から南へ延びた標高95m程の丘陵先端にあり、平野部に加え遠州灘まで望める。南部は茶畑により開墾されているが、北部頂上部付近には階段状の曲輪が残る。

アクセス 掛川市大坂

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6/6 中村(山)砦 なかむらやまとりで

高天神城の南東約3km。標高30m程の独立丘陵で、南側は入江となっており、周囲は水堀となっていた。2カ所の頂部に物見台を設け、その頂部を仕切るように堀切がある。水堀と入江を利用した、物資の搬入・搬出を目的としていた砦。

アクセス 掛川市中

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砦によっては整備されていない箇所や
山歩きの装備が必要な箇所があります。

天正年間高天神城包囲網

[共に歴史に名を残す掛川三城]

  • 掛川城
  • 高天神城
  • 横須賀城

側面から城攻めを支援。

高天神城と横須賀城

水運を利用した兵士、物資の
大量輸送ルートの拠点

高天神城奪還を開始した徳川家康。まずは奪還の拠点となる馬伏塚城(袋井市)を改修、さらにその南東に岡崎の城山(袋井市)を築城した。往時の馬伏塚城や岡崎の城山の周囲には低湿地や潟湖が広がっており、小舟が往来する水上交通網が発達していた。さらに南には浅羽湊、横須賀湊があり、家康は城郭と湊を結ぶ水上交通網による兵士ならびに物資の大量輸送ルートの構築に着手した。

『遠州横須賀惣絵図』(個人蔵)
〇印が家康が築城した範囲
家康が築城した往事の城域は、松尾山を中心とした本丸と北の丸を含む小高い丘陵部のみであった。松尾山の背後には巨大な空堀がもうけられており、戦国期のものと評価され、家康時代の遺構を目にすることができる。
家康自らが縄張りをした
最初の城郭

城の選地としては曲折があった横須賀城だが、築城が決まると、家康自らが縄張りをした最初の城郭とされる。後の天下人となる家康が最初に本格的な築城にかかわった城郭として、浜松城と並び横須賀城も出世城とされる所以。完成後も家康はたびたび来城しており、高天神城奪還に対する並々ならぬ決意と執念がうかがえる。

アクセス
掛川市山崎1-1

城攻めの拠点として活躍。

高天神城と掛川城

東海道と塩の道(信州街道)を
押さえる要衝の城
対武田の拠点の城

永禄12年(1569)、徳川家康は掛川城を今川氏から奪取すると、対武田策として大改修を行った(改修の時期は、天正4年[1576]以降)。三日月堀・十露盤堀・内堀(松尾池)に囲郭された本丸虎口は、出枡形とも呼べる非常に技巧的な虎口に改修された。

天守をいただく近世城郭として語られることの多い掛川城であるが、発掘調査によって戦国時代の掛川城が明らかとなった。

アクセス掛川市掛川1138番地の24

掛川城公式サイト