長篠の戦いで武田軍に勝利した徳川家康は
自らの領地にくさびを打ち込まれた形となっていた
高天神城奪還に乗り出した。
徳川家康は、武田方の高天神城を奪還するために、徹底した高天神城包囲作戦を展開。
横須賀城を築城することで、兵站ルートを強化した。
また、六砦の築城を行い、高天神城への兵糧・物資補給の遮断を徹底、
それらは高天神城奪還への大きな役割を担うこととなった。
三河物語によれば、高天神城は六砦以外にも柵や掘で周囲を包囲されたと記録されており、家康の高天神城奪還への強い意志がうかがえる。
至近距離から城方の戦意を喪失、最大規模の砦。
高天神城の北東約1.5kmに位置する。位置については二説ある。その内、東砦は比較的良好に遺されており、頂部の物見台を中心とした主曲輪のほか、腰曲輪・竪堀が残されている。
アクセス 掛川市中方・下土方・岩滑・中
高天神城の北方約4kmに位置し、標高250m程の小笠山山頂付近に築かれている。徳川家康は、永禄11年(1567)の掛川城攻めの際に構築し、天正9年(1581)の高天神城の戦いに際し改修している。家康が布陣したとされる笹峯御殿をはじめ兵士が駐留したであろう曲輪が残る。堀切・土塁のほか大規模な横堀は圧巻。
アクセス 掛川市入山瀬
高天神城の北東約2kmに位置する。小貫と土方地区の境にあたり、元々番所が置かれていたと云われる。標高80m程の丘陵にあり、削平により残存状態は悪いが、曲輪・腰曲輪が確認できる。
アクセス 掛川市小貫
高天神城の東約3kmに位置する。標高40m程の半島状に伸びた丘陵先端を砦域としている。物見台・曲輪・腰曲輪が比較的良好に遺されている。
アクセス 菊川市大石
高天神城の南方約3kmに位置する。小笠山から南へ延びた標高95m程の丘陵先端にあり、平野部に加え遠州灘まで望める。南部は茶畑により開墾されているが、北部頂上部付近には階段状の曲輪が残る。
アクセス 掛川市大坂
高天神城の南東約3km。標高30m程の独立丘陵で、南側は入江となっており、周囲は水堀となっていた。2カ所の頂部に物見台を設け、その頂部を仕切るように堀切がある。水堀と入江を利用した、物資の搬入・搬出を目的としていた砦。
アクセス 掛川市中
注砦によっては整備されていない箇所や
山歩きの装備が必要な箇所があります。
高天神城奪還を開始した徳川家康。まずは奪還の拠点となる馬伏塚城(袋井市)を改修、さらにその南東に岡崎の城山(袋井市)を築城した。往時の馬伏塚城や岡崎の城山の周囲には低湿地や潟湖が広がっており、小舟が往来する水上交通網が発達していた。さらに南には浅羽湊、横須賀湊があり、家康は城郭と湊を結ぶ水上交通網による兵士ならびに物資の大量輸送ルートの構築に着手した。
城の選地としては曲折があった横須賀城だが、築城が決まると、家康自らが縄張りをした最初の城郭とされる。後の天下人となる家康が最初に本格的な築城にかかわった城郭として、浜松城と並び横須賀城も出世城とされる所以。完成後も家康はたびたび来城しており、高天神城奪還に対する並々ならぬ決意と執念がうかがえる。
アクセス
掛川市山崎1-1